【問1解説】
間違い:
①アイルランド島は、ヨーロッパで3番目に大きな島で、面積は84,412㎢。北海道(面積:83,424㎢)に北方領土を足し合わせた面積にほぼ等しく、世界では20番目に大きな島である。グレートブリテン島の北部3分の1を占めるスコットランド(面積:78,772㎢)よりも、少し大きい。
③イギリスはEU加盟国でしたが、通貨は独 自通貨(ポンド)を使っていました。EU連合に加盟していても通貨統一(ユーロ)を使用していない国があります。アイルランドはユーロを採用しており、元々独自通貨を使用していたイギリスのEU離脱には影響されません。なお、アイルランドの北部に位置する北アイルランドはイギリスポンドと北アイルランドポンドの2種類を採用しています。
④北アイルランドも守護聖人はセント・パトリックです。
⑤ジャイアンツコーズウェイは北アイルランドのブッシュミルズ蒸留所から約4.2Km北に位置します。一方、アイルランド島で最も有名な先史時代の遺跡である「ニューグレンジ」は、アイルランド・ミース県に位置し、スレーン蒸留所から約5.9km東にあります。
【問2解説】
「アイルランド自由国」は、1922年に成立した自治領アイルランドの名称。アイルランド32のうち、26州が「アイルランド自由国」としてイギリスから分離されました。1916年のイースター蜂起に続く1918年の総選挙で、シン−フェイン党が大勝してアイルランド議会をつくり独立を要求。イギリスは、アイルランド島北東部地方のアルスターを分離する自治法を発布したが、シン−フェイン党はこれを認めず、2年余の内戦となったが、1922年イギリスの妥協案をいれ、アイルランド自由国が成立した。自治領とはいっても、総督の存在を認め、外交・貿易・軍事などの実権をイギリスに握られていた。1937年エール共和国を経て、1949年にアイルランド共和国となった。
【テキスト:P114】【新版テキスト:P128】
【問3解説】
血の日曜日事件は、1972年1月30日、北アイルランドのロンドンデリーのカトリック系住民が多いボグサイド(Bogside)地区で、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃された事件。14名死亡、13名負傷。事件のあった地区の名を取って「ボグサイドの虐殺(Bogside Massacre)」とも呼ばれる。IRA暫定派は、1970年からイギリス統治に対する反対運動を行っていた。軍が非武装の市民を殺傷したこの事件は、現代アイルランド史における重要な事件である。
英領北アイルランドのロンドンデリーで1972年に起きた「血の日曜日事件」で、カトリック系住民を追う英軍兵士(1972年1月30日撮影)
英領北アイルランド・ロンドンデリーのボグサイド地区で、住宅の壁に描かれた1972年の「血の日曜日事件」の犠牲者を追悼する壁画
【問4解説】
間違い:
①北アイルランドは英国に属していますが、アイルランド島で造られるウイスキーは全てアイリッシュに分類されます。
⑤熟成については、アイルランドまたは北アイルランドの倉庫で3年間以上熟成させることが義務付けられており、移動した場合は、両方の土地での累計年数が3年以上とされています。
正解:
②糖化については、麦芽に含まれる酵素ジアスターゼによって糖化させることが義務付けられています。
③蒸留液から香りと味を引き出せるように、アルコール度数94.8%以下で蒸留することはスコッチウイスキーと同じです。
④容量700ℓを超えない"木製"樽に詰めるとしか定義されていません。スコッチウイスキーの場合は、"オーク樽に詰める"とされているので、スコッチと違ってオーク樽に限定されないことになります。
【テキスト:P117】【新版テキスト:P131】
【問5解説】
アイリッシュウイスキーは、アイルランドの1980年アイリッシュウイスキー法第1条によって、以下のように規定されています。
・穀物類を原料とする
・麦芽の酵素ジアスターゼで糖化(低分子の糖類に変化)させる
・酵母の働きで発酵させる
・蒸留液はアルコール度数94.8%以下で蒸留
・容量700ℓを超えない木製樽に詰める
・アイルランド、もしくは北アイルランドの倉庫で3年間以上熟成させる(移動した場合は両方の土地での累計年数が3年以上)
アイリッシュのグレーンウイスキーは、スコッチと同様にトウモロコシや大麦、小麦などを主原料として連続式蒸留機で蒸留しますが、ポットスチルを使うことも可能です。ただし、メインは連続式蒸留機です。また、ポットスチルを使った場合、「アイリッシュ・ポットスチルウイスキー」と区別できないため、大麦麦芽の使用は30%未満と決められています。
逆に、「アイリッシュ・ポットスチルウイスキー」は、グレーンウイスキーと区別するため、「大麦麦芽と未発芽の大麦がそれぞれ30%以上、それ以外の穀物は5%未満」と原料の比率が決められています。
【問6解説】
アイリッシュウイスキーは、
①ポットスチル・アイリッシュウイスキー、
②モルト・アイリッシュウイスキー、
③グレーン・アイリッシュウイスキー、
④ブレンデッド・アイリッシュウイスキー
の4つに大別されます。
①のポットスチルウイスキーは、かつては「ピュア・ポットスチルウイスキー」とか、「シングル・ポットスチルウイスキー」などと呼ばれていましたが、2014年のIWA(アイリッシュウイスキー協会)により「アイリッシュ・ポットスチルウイスキー」という名称に正式に定義されました。
ポットスチルウイスキーの原料混合比率はモルトとバーレイが30%以上、その他の穀物の合計が5%以下と定められています。
さらに詳しくは、大麦と麦芽が全体の95%を占め、かつ大麦麦芽はノンピートであることが義務付けられています。つまり「アイリッシュ・ポットスチルウイスキー」と名乗るものにピーティなウイスキーは存在しないわけです(ピートを焚くアイリッシュで有名なカネマラなどはここには属しません)。
単式蒸留器を使ったバッチ蒸留を行い、蒸留回数は2回でも3回でも構いません。
なので、①の「3種があり」は微妙ですが、②の「3回蒸留をしなければならないと決められている」は間違いとなります。
③のアイリッシュのモルトウイスキーは殆どスコッチと同じなのでピート麦芽を使うことも可能です。
④のグレーンウイスキーに関しては、単式蒸留器を使った場合、上記の「ポットスチルウイスキー」と区別できないため、大麦麦芽の使用が30%未満 と決められています。
上記①の解説にあるように、「ポットスチルウイスキー」にはピート麦芽は使用できませんので、⑤は間違っていません。
【問8解説】
下図の通り、②ブラックウォーターは、ダブリンには所在しません。
今から100年以上前の19世紀後半は、アイリッシュ・ウイスキーはスコッチウイスキーと拮抗する規模を誇っていました。当時のダブリンはウイスキー蒸留の大中心地で、その中で特に名声が高かったのがダブリンのビッグ・フォーといわれた
・ジョン・ジェームソン(John Jameson)のボウ・ストリート(Bow Street)蒸留所、
・ウイリアム・ジェームソン(William Jameson)のマローボーン・レーン(Marrowbone Lane)蒸留所、
・ジョン・パワーズ(John Powers)のジョンズ・レーン(John's Lane)蒸留所、
・ジョージ・ロー(George Roe)のトーマス・ストリート(Thomas Street)蒸留所
でした。20世紀になるとアイリッシュ・ウイスキーは衰退し、ダブリンの蒸留所は最後まで残っていたボウ・ストリートが1971年に、①のジョンズ・レーンも1974年には閉鎖されてしまい現在は残っていません。
③ピアースライオンズ蒸留所は、アイルランドのダブリン・ジェームズストリートにある1901年に建てられたセント・ジェームズ教会を、そっくりそのまま蒸留所に改装し、2017年9月にオープンした蒸留所です。
④のトーマス・ストリート蒸留所は、現在でも操業しているダブリン市内のギネスのビール工場の近くにありました。当時はダブリンで最大級の蒸留所で、石臼式粉砕機8基、仕込槽3基、180kℓの発酵槽16基、蒸留釜は8基で、その内初留釜の容量は90kℓ、2回目の蒸留を行うローワイン・スティル(Low wine still)と3回目の蒸留を行うスピリッツ・スティルは各54kℓ、年間生産量は9,000kℓと巨大な規模でした。その後、経営者が変わり1926年には閉鎖されました。今でも存在する高さ45mの「聖パトリックの塔」は、元はトーマス・ストリート蒸留所の風車塔でした。頭頂部にアイルランドの守護聖人聖パトリックの像があります。
⑤のフェニックスパーク蒸留所は、1878年にDCL社がダブリンに設立した蒸留所ですが、1921年に閉鎖しています。因みに、フェニックスパークは、首都ダブリンにあるヨーロッパの中でも最大級の公園です。大きさは707ヘクタールで、東京ドーム(約4.7ヘクタール)の150倍の面積があります。
【問9解説】
①ポットスチルウイスキーは、単式蒸留器を使ったバッチ蒸留を行わなければなりません。但し、蒸留回数は2回でも3回でも構いません。従って、これは正しい(〇)。
②大麦と大麦麦芽の比率はどちらも全体の30%以上との定めがありますので、②は間違っています(✖)。
③ポットスチルウイスキーの原料混合比率は、モルトと未発芽大麦(バーレイ)が30%以上、その他の穀物の合計が5%以下と定められています。従って、これも間違っています(✖)。
④①の通り、ポットスチルウイスキーは、単式蒸留器を使ったバッチ蒸留(連続ではないということ)を行わなければなりません。従って、これも間違っています(✖)。
⑤原料の産地についての縛りはありません。従って、これも間違っています(✖)。
以上の理由により、正しいものは①のみとなります。
【問11解説】
アイリッシュウイスキーとしては珍しいスモーキーなシングルモルト「カネマラ」を作っているのはクーリー蒸留所です。同蒸留所で造っている他のシングルモルトに、「クロンターフ」「ターコネル」「ヘネシー・ナ・ジェーナ」があります。「ナジェーナ」は、クーリーのモルト原酒を使って、コニャックの雄であるヘネシー社が、一度だけウイスキーを造ったもの。表記はピュアモルトになっていましたが、ノンピートの2回蒸留のクーリーの原酒です。残念ながらボトリングは一度きりで、今では幻のウイスキーとなっています。
【テキスト:P125】【新版テキスト:P138】
【問13解説】
問題にある事象の年代をカッコ内に示すと以下の通りです。従って、D➡C➡B➡Aとなり①が正解です。
A.第2次大戦中に、国内消費確保のため輸出を禁止した。(1939年)
B.アメリカ禁酒法解禁による需要に対応できなかった。(1920年~1933年)
C.アイルランド自由国成立。これにより、大英帝国の商圏から締め出しを受ける。(1919年~1921年)
D.ロイヤルコミッションの裁定により、グレーン(ブレンデッド)ウイスキーもウイスキーとして認められる。(1909年)
以下に、アイリッシュウイスキーの衰退について記載された土屋守著『人生を豊かにしたい人のためのウイスキー (マイナビ新書(2021/3/24))』の中の一文を引用するので、凡その流れを覚えて下さい。
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アイルランド独立戦争とアイリッシュの衰退
アイリッシュウイスキーが衰退した理由は大きく3つあります。
一つは、スコッチのブレンデッドの誕生です。ブレンデッドが誕生する以前、アイリッシュウイスキーはスコッチのモルトウイスキーよりも軽く飲みやすく、ゆえに人気を博しました。ところが、後発のブレンデッドに比べると重く。製造コストも高かったことから、次第にブレンデッドに押されるようになります。
そこに、アイルランドの独立戦争、アメリカ市場でのシェア激減という二つの不運が重なります。
1916年、イギリスからの独立を目的とした共和主義者たちか武装蜂起します(イースター蜂起)。蜂起軍は1週間ほどでイギリス軍に無条件降伏しますが、蜂起軍のリーダー格だった16名は処刑されました。
これがアイルランド人の愛国心を刺激し独立運動は激しさを増し、第1次回界大戦直後の1919年から1921年にかけて、イギリスとの間で独立戦争が勃発します。
独立派はアイルランド共和国の樹立を宣言し、イギリス軍と激しい戦いをくり広げました。ダブリンでも市街戦が起こり、「ダブリンのピック4」と称されたトーマスストリート蒸留所、ボウストリート蒸留所、ジョンズレーン蒸留所、マローボーンレーン蒸留所が生産停止に追い込まれました。
その後、イギリスか自治領としてアイルランド自由国の建国を認めたことで、独立戦争は終結します。ただし、アイルランド自由国は南部の26州で構成され、北アイルランドの6州は自由国には参加しませんでした。こうしてアイルランドは、北と南とで分断されることになったのです。
アイルランド自由国に対して、イギリスは報復措置をとりました。当時、イギリスは大英帝国としての最盛期を迎えており、その商圏はカナダ、アフリカ、インド、オーストラリア、ニュージーランドにおよんでいました。イギリスはその商圏から、アイリッシュウイスキーを締め出したのです。
大英帝国の広大なマーケットを失ったアイリッシュウイスキーは、次にアメリカ市場も失います。1920年から1933年にかけてアメリカでは禁酒法が施行され、アメリカでのアイリッシュのシェアが激減。アメリカがおもな輸出先だったアイリッシュウイスキーにとって、これは大きな痛手となりました。
1939年に第2次世界大戦がはじまると、スコッチとアイリッシュの差はさらに広がります。戦時下、アイルランド自由国は国内消費分を確保するため、アイリッシュウイスキーのアメリカへの輸出を禁止。対してスコットランドは、外貨獲得と国内産業の保護のため、アメリカへの輸出を推進しました。
当時、アメリカは禁酒法の影響で国内のウイスキー産業が衰退しており、アメリカ兵たちに配給されたウイスキーはもっぱらスコッチでした。結果として、スコッチを飲み慣れたアメリカ兵たちは戦後もスコッチを愛飲するようになり、スコッチウイスキーがアメリカ市場を席巻。アイリッシュウイスキーはアメリカ市場ナンバーワンの座をスコッチに奪い取られてしまいます。
1949年、アイルランド自由国は国名をアイルランド共和国に改め、同時にイギリスから脱退し完令な独立国となりました。しかし、アイリッシュウイスキー産業が盛り返すことはなく、蒸留所は次々と閉鎖。そんなアイリッシュウイスキーの凋落ぶりを見て、DCL社の重役が、「アイルランド人というのは、つくづくアイロニーに満ちている」と皮肉をいったことは…
【問15解説】
写真は、2014年にオープンしたタラモア蒸留所(ウィリアム・グラント&サンズ社)。写真はポットスチルウイスキーを造る三基のスチル(フォーサイス社製)。
【新版テキスト:P142】
【問18解説】
聖パトリックの祝日(Saint Patrick's Day)は、アイルランドにキリスト教を広めた聖人聖パトリックの命日(3月17日)。カトリックの祭日であり、アイルランド共和国の祝祭日。シャムロックを服につけたり、ミサを行ったりする。アイルランドでは何世紀も前からこの日を祝う伝統が受け継がれ、正式に1903年より祝日となり、イギリスから独立後、徐々に祭礼日として成長しました。
1996年には政府が主体となってダブリンで5日間の盛大なフェスティバルとなりパレードやその他の行事が行われました。
日本では、表参道で開催される『セント・パトリックス・デー・パレード東京』が最も有名で、アジア最大規模と言われています。写真は2012年に開催された時のもの。
【写真出典:Flickr】
【問19解説】
①1987年にクーリー蒸留所を創業したのは「ジョン・ティーリング」氏。1940年代にアイルランド自由国政府(現アイルランド共和国)が建てた蒸留所の1つで、ジャガイモから工業用アルコールを生産する工場であった、国立のケミックトー蒸留所が売りに出されていることを知ったジョン氏が買い取り、ウイスキー蒸留所に改造しました。なので、①は、「シャッタ・ティーリング」氏ではなく、正しくは「ジョン・ティーリング」氏。
②クーリー蒸留所に設置されている初留1基、再留1基の2基のスチルは、スコッチのベンネヴィス(1989年にニッカウヰスキーが買収した蒸留所で、そのタイミングでスチルを売りに出していたらしい)の中古品で、これを使って1989年からモルトウイスキーの製造を始めました。2回蒸溜によって得られるニューメイクはアルコール度数約66%。貯蔵熟成樽は全てバーボン樽。クーリー蒸溜所の貯蔵庫はアイリッシュウイスキーの貯蔵でよく見られるパラタイズ式を使用した縦積み方式です(写真)。アイリッシュ初となるピーテッド麦芽(14ppm)を使った「カネマラ」は、クーリーの代表的製品となりましたが、もちろんピート麦芽はスコットランドからの輸入です。「カネマラ」は未発芽大麦を使用せず、ピート(泥炭)を焚いて麦芽乾燥させるアイリッシュウイスキーでは現在唯一のピーテッド・シングルモルトです。「カネマラ」の製造に用いる仕込水は、クーリー山のスリーヴ・ナ・クロークに湧く軟水。1992年に第1号の「ターコネル」をリリス―し、その後に「カネマラ」をリリースしていますので、その部分は合っていますが、カネマラに使用しているピートは、アイルランド産ではなくスコットランドからの輸入です。従って、②は間違いとなります。
❸貯蔵熟成においてはクーリー蒸留所内だけでなく、一部原酒をアイルランド中部に位置するキルベガン蒸留所でおこなっています。首都ダブリンから西へ車で約1時間半の場所にタラモアという街があり、そこから北へ10キロほどのところにある小さな村がキルベガンです。キルベガン蒸留所の前身は、特定されている蒸留所のなかで記録に残っている最古の蒸留所であるブルスナ蒸留所(1757年創業)です。1843年にロック家が買収し、ロック蒸留所となり、輝かしい時代もありましたが、1953年に創業を停止して以来そのままになっていました。クーリー社が1988年にロック蒸溜所とキルベガンの商標オーナーとなり、貯蔵庫、そして歴史的価値の高いウイスキー博物館としても機能させ、さらに2007年からは小規模ながら蒸留を再開し、ブティック・ディスティラリーとしての人気を高めています。ブレンデッドウイスキーの「キルベガン」はブルスナ蒸留所時代の代表ブランドを復活させたものです。というわけで、③が正解です。
④クーリー蒸留所は、ジョン・ティーリング氏から、後に2011年にアメリカのビーム社の所有となり、ビーム社は2014年4月30日以降はサントリーホールディングスの傘下となっており、現在クーリー蒸留所はビーム サントリーの子会社となっています。なので、④のブラウンフォーマン社という記載は間違いです。
⑤クーリー蒸留所ではライウィスキーやジンは製造していません。なので⑤は間違いです。
【問21解説】
現在の蒸留所が建てられたのは1784年のこと。但し、それ以前から密造は行われていたようで、1743年の密造の記録が残されています。創業当時の建物は1885年の火災により焼失しましたが、直後に施設を一新し、アイリッシュでは珍しいシングルモルトの蒸留所となりました。設計したのはスコットランドの著名な建築家、チャールズ・クリー・ドイグ(Charles Cree Doig)です。ドイグは、スコットランドにおける蒸留所設計の第一人者として知られており、パゴダ屋根(正式にはドイグベンチレータと呼ばれる)を発明し、1890年代の蒸留所急成長期に数多くの設計に携わりました。因みに、ドイグが関わったモルトとグレーン蒸留所の正確な記録は残されていないようですが、100ともいわれています。
そのいくつかを上げると、Glenburgie, Dailuaine, Lochside, Talisker, Aberlour, Glenalbyn, Balblair, Longmorn, Speyburn, Glen Elgin, Oban, Dalwhinie, Aberfeldy, Coleburn, Craigellachie, Cragganmore, Benromach, Dallas Dhu, Glen More, Imperial, Bushmills等々です。
ドイグの結婚式写真(1880年頃) 【写真引用:稲富博士のスコッチノート】
【テキスト:P124】【新版テキスト:P139】
【問23解説】
①シャノン川は、アイルランド島を西(コノートの大部分)と東・南(レンスターとマンスター)に分けるアイルランド最長の川です。
キルベガン蒸留所は、アイルランド中部のキルベガンのブルスナ(Brusna)川近くに1757年にブルスナ(Brusna)蒸留所として設立され、1762年に創業を開始しましたので、シャノン川とは関係ありません。
②キルベガンとはゲール語で「小さな教会」を意味します。1843年にジョン・ロックに蒸留免許が譲渡され、以降ロック―族の経営となったため、ロックス(Locke's)蒸留所の名で親しまれて来ました。従って、これが正解になりますので、以下の3つも間違いの文章となります。
③1920年代まで、リバプールで人気のウイスキーとなっていましたが、1954年3月19日、蒸留所の生産は終了し、1957年には完全に閉鎖されました。
④キルベガン蒸留所が閉鎖時には、3基のポットスチルがありましたが銅のスクラップとして売られ、その後建物は地元の養豚業者が利用していました。現在、キルベガン蒸留所で使われている2基のポットスチルの一つは1800年代初めに作られたもので、かつてはタラモア蒸溜所で利用されており、今日世界でウイスキーを生産するポットスチルでも最も古い物です。
【参考:土屋守のウイスキー先夜一夜】
⑤現在はビームサントリー社の所有ですが、製品はモルトウイスキーのみではありません。
【参考:キルベガン公式HP】
【問24解説】
グレートノーザン蒸留所は、クーリー蒸留所を創業したジョン・ティーリング氏が、2015年に立ち上げた蒸留所で、グレーンウイスキーを他社に供給するのが目的でした。
クーリー蒸留所をビーム社に売った資金を元に、ダンダークにあったギネスのビール工場をディアジオ社から買い取り、そこにイタリアのフリッリ社製の連続式蒸留機を導入し、2015年からグレーンウイスキーを造り始めました。元々この工場はグレートノーザン醸造所といって、アイリッシュラガーの「ハープ」を造っていました。蒸留所名はそのままビール工場の名前を継いでいます。
【参考:土屋守のウイスキー先夜一夜】
【新版テキスト:P141】
【問25解説】
前問解説のギネスの工場のある一帯は、かつてリバティー地区と呼ばれ、ビール工場やウイスキー蒸留所、それらに麦芽を供給する製麦業者が立ち並んでいました。
ダブリンのビッグ4と呼ばれた
①ジョージ・ロー(George Roe)のトーマス・ストリート(Thomas Street)蒸留所
②ジョン・パワーズ(John Powers)のジョンズ・レーン(John's Lane)蒸留所、
③ウイリアム・ジェームソン(William Jameson)のマローボーン・レーン(Marrowbone Lane)蒸留所、
もリバティー地区にあり、その対岸、リフィー河を挟んだ北側がジェムソンで有名な④ジョン・ジェームソン(John Jameson)のボウ・ストリート(Bow Street)蒸留所です。
ジョンズレーン蒸留所が造る「パワーズ」と覇を競い合っていたのが、ボウストリート蒸留所が造る「ジェムソン」でした。
しかし、20世紀以降、アイルランドの独立戦争や相つぐ内戦でウイスキー産業は衰退し、ビッグ4も次々と閉鎖となり、最後まで残っていたジョンズレーン蒸留所が閉鎖になったのが1976年で、それ以来ダブリンでは40年近く一滴のウイスキーも造られていませんでした。
【引用:土屋守のウイスキー先夜一夜】
【問26解説】
1808年、北アイルランド・ベルファストに本拠を置いていたロイヤル・アイリッシュ・ディスティラーズ社の「ダンヴィルズ」を、近年、エクリンヴィル蒸留所が復活させました。
現在市場に出回っているのは、この復活させたダンヴィルズです。バナナや青リンゴ、カーネーションポプリのようなアロマをもつウイスキーで、スムースかつクリーミーな舌触りです。
ラベルデザインもおしゃれで、人気の高いウイスキーです。
【参考:土屋守のウイスキー日和】
【問27解説】
アイルランドのダブリン生まれで、アメリカのハーバード・ビジネススクールで学んだクーリー蒸留所を創業したジョン・ティーリング氏の2人の息子がアイリッシュ初のボトラーとして創業。
その後、クーリー蒸留所がビーム社(現ビームサントリー社)の所有となったことで、将来的な原酒確保を目的として2015年にダブリンのリバティー地区に開設したのが「ティーリング蒸留所」です。
ティーリング蒸留所
ティーリング蒸留所のポットスチル
【写真出典:ティーリング蒸留所公式HP】
【問28解説】
問8の解説にも記述しましたが、フェニックスパーク蒸留所は、1878年にDCL社がダブリンに設立した蒸留所ですが、1921年に閉鎖しています。
因みに、フェニックスパークは、首都ダブリンにあるヨーロッパの中でも最大級の公園です。大きさは707ヘクタールで、東京ドーム(約4.7ヘクタール)の150倍の面積があります。
【問29説】
①タラモア蒸留所が創業したのは1829年で、マイケル・モロイが、肥沃で穀物の生産地だったオファリー州の中心都市タラモアのグランド・カナール(大運河)沿いに建設しました。1857年に蒸留所はマイケル・モロイから甥のバーナード・デイリー(Barnard Daly)に継承されました。従って、ロック家とは関係ないので、これは間違いです。
②1862年に14歳のダニエル・エドモンド・ウイリアムス(Daniel Edmond Williams)少年が蒸留所で働くようになりました。馬小屋裏の藁のなかで寝泊まりしても良い、というのが給与の一部でした。ウイリアムスは仕事に励み、ウイスキーの製造に必要な技量を着実に習得していきました。デイリーの息子(名前は同じくバーナード)が会社を継ぎましたが、彼はウイスキーに興味がなく、ポロと競馬馬の飼育に熱中していたので、蒸留所はウイリアムスに任されるようになりました。ウイリアムスは蒸留所を近代化すると共に、1897年に自身の頭文字をつけて「タラモアデュー(Tullamore D.E.W)というブランドをつくりました。デュー(Dew)には「露」の意味があり人気を博しました。会社の所有権はデイリーからダニエル・E・ウイリアムスに移り、ダニエルの死後は息子のジョンへ引き継がれました。20世紀に入るとアイリッシュ・ウイスキーを襲った4重苦、すなわち英国の植民地市場から締め出されたこと、アメリカの禁酒法、世界大恐慌、スコッチ・ブレンデッド・ウイスキーの台頭、に押されるようになりました。第二次大戦後、消費者に軽いブレンデッドが受けるのを見てタラモアは、1948年にカフェスティルを導入、それまでのポット・ウイスキーからアイリッシュ・ウイスキーで最初のブレンデッド・ウイスキーに切り替えましたが、退潮を止めるには至らず1954年に閉鎖しました。その後、タラモアデューは、ミドルトン蒸留所などで造られ続けてきました。従って、これは正解です。
ダニエル・エドモンド・ウイリアムス(Daniel Edmond Williams)
③アイリッシュウイスキーの順位としては、1位ジェムソン、2位がタラモアデュー、3位がブッシュミルズの順で売上ているので、これも間違いです。
④2010年にタラモアのブランド権を買収したのは、スコッチのグレンフィディックで有名なウイリアム・グラント&サンズ社で、権利が移ったことで再建計画が進み、60年間の閉鎖期間を経て2014年9月に新生タラモア蒸留所として蘇りました。従って、グレンフアークラス社は間違いです。
⑤新生タラモア蒸留所には、かつてのタラモアのスチルをモデルにしたユニークな形の初留釜、バルジ型の後留釜、ランタンヘッド型の再留釜など計6基のスチルがあり、モルトウイスキーの他に、ポットスチルウイスキーも造っています。
さらにその蒸留棟とは別に、巨大な連続式蒸留機も有し、グレーンウイスキーの製造も可能にしています。従って、2種類だけというのは間違いです。
【問30解説】
①ミドルトン蒸留所はコーク郊外のミドルトンの町に1825年、マーフィー3兄弟によって設立された蒸留所です。従って、パディー兄弟というのは間違いです。
❷敷地の正面にある旧ミドルトン蒸留所は、現在ビジターセンター(ジェムソンヘリテージ)・博物館として利用されていて、ミドルトンの名称は新・旧を区別して表記されることが多くなっています。旧ミドルトン蒸留所で1975年3月まで使用されていたのが世界最大のポットスチルで、初留釜は約15万ℓの容量がありました。これはスコッチ最大のものの5倍以上の大きさです。従って、これが正解となります。
③容量約15万ℓの世界最大のポットスチルではグレーンウイスキーを造っていないので、これは間違いです。
④コールレーン(Coleraine)の名前のは、1820年に北アイルランドのコールレーンに設立された「コールレーン蒸溜所」に由来します。かつて、”アイルランド No.1の蒸溜所”と評価された時代もありましたが、1978年に閉鎖されてしまいました。コールレーンは、旧ブッシュミルズ蒸留所で生産されているブレンデッドウイスキーです。従って、これも間違っています。
⑤現在、ポットスチルは10基で、アイリッシュ伝統の3回蒸留を行っています。グレーンを造る連続式蒸留機も、近代的なアロスパス式と旧タイプのコフィー式の3セットが稼働しています。原料の比率や蒸留方法を変え、数十種の原酒タイプを造り分けています。年間生産量もグレーンを合わせると6,500万ℓ近くになり、アイリッシュウイスキー全体の7割近くを占めています。旧ミドルトン蒸留所で稼働していたのと同じものは使用していないので、これも間違いです。
【問31解説】
パワーズはアイリッシュウイスキーの銘柄の1つで、現在は新ミドルトン蒸留所(ペルノリカール社)で造られています。元々は、アイルランド国内で殆どが消費されていて、アイルランドでの人気はナンバー1だと言われています。
パワーズは、元々、ジョン・パワーがアイルランドのダブリンに1791年に設立した「ジョンズレーン蒸留所」で製造されていました。
かつては生産量世界一を誇っていたアイリッシュウイスキーは、ダブリンに蒸溜所が集まっていて「ジョンズ・レーン(John's Lane)蒸留所」を始め「ボウ・ストリート(Bow Street)蒸留所」、「トーマス・ストリート(Thomas Street)蒸留所」、「マローボーン・レーン(Marrowbone Lane)蒸留所」が存在していました。その中でも、ジョンズレーン蒸留所の年間生産量は約450万ℓを誇っていました。
しかし、世界大戦やイギリスの独立戦争、輸出先のアメリカでの禁酒法、スコッチウイスキーの台頭といった歴史的な背景により、アイルランドの蒸留所はどんどんに閉鎖に追い込まれていきました。アイリッシュウイスキーの存続をかけ、1966年にコーク、ジェムソン、パワーズの3社が合併しアイリッシュ・ディスティラーズ社(Irish Distillers Ltd=IDL)が誕生し、ウイスキーの生産が1つの蒸留所に集約することになりました。
ダブリンの中心地にあったジェムスンとパワーズの蒸留所は閉鎖され、最後まで残っていたジョンズレーン蒸留所も1974年には閉鎖され、1975年に新ミドルトン蒸留所が誕生しました。
パワーズを含めた様々な種類のウイスキーが、新ミドルトン蒸留所で製造されています。
現在のパワーズは①ゴールドラベル、②スリースワロー、③ジョンズ・レーンの3ライン(写真)があって、いずれも3回蒸留して造られています。
因みに、
・スレーン蒸留所は、ブラウンフォーマン社
・ランベイ―ランベイ・アイリッシュウイスキーカンパニー社
【参考:ランベイ公式HP】
・パディー新ミドルトン蒸留所(ペルノリカール社)で製造されているブレンデッドウイスキー
・カネマラ―クーリー蒸留所(ビームサントリー社)で造られるスモーキーなモルトウイスキー
【問33解説】
1981年の夏に初めての野外ロックコンサートがボイン川の畔にあるスレーン城で開催されました。毎年恒例となった一夜限りのそのロックコンサートに登場したのはU2のボノ達です。
伝説となったこの野外コンサートを主催したのが、スレーン城の城主ヘンリー・カニンガム卿でした。その息子で次期城主のアレックス・カニンガム氏は、ウイスキーの蒸留所をつくり、人々にもっと城に来てもらおうと考え、アメリカのブランフォーマン社とパートナーシップを組み創業したのが、城の納屋を改造したスレーン蒸留所でした。蒸留所がオープンしたのは2017年で、実際の蒸留は2018年からスタートしました。スレーン蒸留所のワンバッチは麦芽3トンで、現在造っているのはモルトウイスキーとポットスチルウイスキー、そしてグレーンウイスキーの3種類です。そのため、モルト、ポットスチル用に単式蒸留機が3基、グレーンウイスキー用に連続式蒸留機が1セット設置されています。ポットスチルは、全てスコットランドのマクミラン社製で、連続式はコフィータイプの粗留塔と精留塔ですが、建物の高さが足りないため3分割され、まるで6塔式のような形になっています。使用する樽も3種類で、ブラウンフォーマン社がスレーンのために作った、アメリカンホワイトオークの新樽と、同社のジャックダニエルの空き樽、オロロソシェリー樽です。スレーン蒸留所のブレンデッドウイスキーはアメリカ市場では人気のアイリッシュウイスキーになっています。
U2 - Beautiful Day (Live From Slane Castle,Ireland/2001)
1986年に開催されたクイーンのコンサート、10万人の観衆の前でフレディ・マーキュリーが歌っている様子
【参考:土屋守,Whisky Galore,ウイスキー文化研究所,2021,5(3),p.30-31.】
【問34解説】
コニャックメーカーとして有名なカミュ家の5代目、シリル・カミュ氏と、かつてニューヨークのウォール街を席捲したベアリングス銀行の第7代目、アレクサンダー・ベアリング卿の2人がコラボして実現したのが、ランベイウイスキーです。ランベイとは、ベアリング家が所有するプライベートアイランドのことで、ダブリンの北東沖に浮かぶ周囲10㎞ほどの小島です。元々はヴァイキングが付けた名前で『子羊の島』の意味があります。コラボのキッカケは、2人がある会合で出会ったこと。カミュはイル・ド・レという島で造るコニャックで知られますが、それと同じように島で造るアイリッシュウイスキーを、シリル氏は探していました。ベアリング卿は、ランベイ島の有効活用を模索していたところで、2人は意気投合し、共同で事業を立ち上げることにしました。ただし、ランベイ島でウイスキーを造るわけではなく、ウエストコーク蒸留所から原酒を買ってきて、それを島で後熟させるというものです。その際に使う樽は、もちろん全てカミュが使ったフレンチオークの樽です。そのために海の傍に漁師小屋を改造した熟成庫を準備しました。その小さな熟成庫には現在、100樽近い樽が置かれています。ランベイウイスキーが初めて世に出たのは2017年のことですが、今では世界30ヶ国以上で飲まれている人気のウイスキーとなっています。ランベイがシンボルとしているのがパフィン(ニシツノメドリ)で、そのパフィンがタキシード姿でラベルに描かれています。タキシードは、ベアリング家が考案したスタイルでした。
【参考:土屋守,Whisky Galore,ウイスキー文化研究所,2021,5(3),p.34-35.】
【問35解説】
問23の解説でも触れましたがもう一度。
キルベガン蒸留所は、タラモアの町から車で10分ほどの距離にあるウェストミーズ県キルベガンのブルスナ川沿いにある世界最古と言われる蒸留所です。かつてはブルスナ蒸留所(Brusna Distillery)やロックス蒸留所(Locke's Distillery)とも呼ばれていました。現在はビーム サントリー社が所有しています。
蒸留所は1757年に設立され、1798年からその年のアイルランド人連盟の反乱に加担したとして、マリンガーで息子が処刑されたマシュー・マクマナス(Matthias McManus)が運営していました。1843年にはジョン・ロックが蒸留所を手に入れ、経営者のロック家の名を取って「ロックス蒸留所」として知られてきました。19世紀半ばから20世紀初頭のアイリッシュ全盛時代には、タラモア同様イングランドやアメリカ、カナダでもよく売れたウイスキーでしたが、アイルランドの独立、そして2度にわたる世界大戦、アメリカの禁酒法で一気に衰退し、1953年に生産を終了し、その後蒸留所は養豚業者の作業場、倉庫として使われていました。1970年代に蒸留所保存の機運が高まり、町が購入して1982年に蒸留所博物館としてオープンしました。キルベガン蒸留所は、1953年に閉鎖されるまで一度も電化されたことがなく、動力は大きな水車を動かして得ていました。そのための水路がブルスナ川の上流から引かれ、巨大な鉄製の水車を回していました。ただし、夏の渇水期だけは2馬力の蒸気エンジンを動力源にしていたとのこと。造っていたのはポットスチルウイスキーで、キルベガンでは大麦、大麦麦芽、ライ麦、オート麦を混ぜて仕込みに用いていましたが、麦芽以外の穀物は硬くてローラーミルでは挽けないので、昔ながらの大きな石臼で粉にしていました。そのための石臼が3基、今でも動かせるように保存されています。
そのキルベガン蒸留所を1989年に買ったのが、クールー蒸留所を創業したジョン・ティーリング氏で、当初、博物館は町が経営、それ以外はクーリーが熟成庫として利用していましたが、創業から250年後の2007年に、ポットスチルを1基だけ導入し、キルベガン蒸留所でもウイスキー造りができるようにしました。同所で使われる2基の銅製ポットスチルの一つは、1800年代初めに作られたもので、かつてはタラモア蒸留所で利用されており、今日世界でウイスキーを生産するポットスチルでも最も古い物である。2010年にキルベガンは糖化槽と発酵槽を導入して完全な運営を再開しました。
【参考:土屋守,Whisky Galore,ウイスキー文化研究所,2021,5(3),p.24-27.】
【問36解説】
ピアースライオンズ蒸留所は、1901年に建てられたセント・ジェームズ教会をそっくりそのまま蒸留所に改装し、2017年9月にオープンした蒸留所です。創業したのは、ピアース・ライオンズ氏で、そのまま蒸留所の名前にしました。ピアース氏は、米国・ケンタッキーのレキシントンに「タウンブランチ蒸留所」を創業した人物です。元々、北アイルランドとの国境に近いダンダークの出身で、ライオンズ家は代々クーパレッジを経営する有名な一家でした。ピアースライオンズの蒸留装置は、ワンバッチが200㎏と極小サイズです。スチルはケンタッキー・ルイビルのヴェンドーム社製で、2基のみ。初留(左側)はバジル型ですが、再留(右側)はヴェンドーム社お得意のハイブリッド式。当初はノンピートのモルトウイスキーのみを造っていましたが、現在はポットスチルウイスキーも造っています。生産量はボトルに換算して年間8,000本。2018年3月に創業者のピアース氏は死去されたが、ライオンズ夫人と子供達が経営を引き継いでいます。
【参考:土屋守,Whisky Galore,ウイスキー文化研究所,2021,5(3),p.20-21.】
【写真出典:travel.jp】
【問37解説】
①ライターズティアーズ
1999年、バーナードとローズマリーのウォルシュ夫妻によって設立された”Walsh Whiskey Distillery”(ウォルシュ・ウイスキー蒸留所)によるアイリッシュウイスキーです。夫妻は、19世紀の伝統的なアイリッシュウイスキーの製法を再現しつつも、革新的で現代の味覚にあった新たな表現を兼ね備えたウイスキーを作り出しています。
現在、「SINGLE POT STILL」「RED HEAD」「CASK STRENGTH」「MARSALA CASK」「INNISKILLIN ICEWINE CASK」「COPPER POT」「DOUBLE OAK」の7製品に加え、さらに3回蒸留したアイリッシュ・シングルモルトを日本のミズナラ樽で熟成させた「JAPANESE CASK」もあります。
【参考:ウォルシュ・ウイスキー公式HP】
②アイリッシュマン
上記と同じウォルシュ・ウイスキー蒸留所のシグネチャーブランドで、現在は世界50ヵ国以上で販売されています。①バーボン樽熟成した3回蒸留のモルトウイスキーとポットスチルウイスキーを7対3でブレンドした「アイリッシュマン ファウンダーズリザーブ(FOUNDER’S RESERVE)」と、3回蒸留のシングルモルトで、バーボン樽とオロロソシェリー樽で熟成させた「アイリッシュマン シングルモルトウイスキー(SINGLE MALT)」などの他に、「SINGLE MALT MARSALA CASK」「12 YEAR OLD」「17 YEAR OLD」「CASK STRENGTH」「FOUNDER’S RESERVE SHERRY CASK FINISH」「FOUNDER’S RESERVE RUM CASK FINISH」の6製品があります。
③ダブリンリハディース
ダブリンリハディース蒸留所が「ザ・ダブリナー」「デッド・ラビット」と共にリリースしているブランドです。オーク・デビルは、5年以上熟成したモルトとグレーンをブレンド後、バーボン樽でフィニッシュしたもの。コッパ―・アレイはシングルモルトで、バーボン樽で10年熟成後、オロロソシェリー樽で後熟させたものの2種類があります。
【参考:ダブリンリハディース公式HP】
④イーガンズ
1852年にタラモアで創業し、高級ウイスキーで名を馳せたP.&H.イーガン社。アイリシュの衰退とともに1度は終幕しましたが、2013年に復活しました。①国際コンペで複数の受賞歴を誇るシングルモルト、②ペドロヒメネス樽熟成のノンエイジ、16年熟成の後、バニュルス樽でフィニッシュしたプレミアムブレンド、バーボン樽を使用したライドボディのシングルグレーン、創業者ヘンリー・イーガン没後100年を記念した、XOコニャック樽が奥行のある味わいを生んでいるブレンデッドなどの品揃えがあります。
【参考:イーガンズ公式HP】
❺ストラナハン
日本では殆ど見掛けない、アメリカ・コロラド州デンバーにある「ストラナハン蒸留所」で造っているアメリカン・シングルモルトウイスキーです。
アメリカにはバーボンとテネシーウイスキーしか無いと思いがちですが、実はモルト原酒100%のシングルモルトも存在します。アメリカン・シングルモルトについては、まだしっかりとした基準があるわけでは無いようですが、原料が大麦100%(ロッキー山脈近辺のものを使用)で熟成はアメリカンホワイトオークの新樽で行なっていることが多いようです。蒸留は単式蒸留を2回行っています。スコッチではアメリカンホワイトオークの新樽で熟成させることはあまり一般的では無いので、その点で特徴が出ているようです。
【参考:ストラナハン公式HP】
【問38解説】
①ブラックブッシュ(ブッシュミルズ蒸留所)
オロロソシェリー樽とバーボン樽で最長7年長期熟成させたモルト原酒を80%以上使用し、少量生産のグレーンウイスキーとブレンド。シェリー樽熟成由来の熟した果実の香りと重厚な味わいが特徴です。
②パディ(新ミドルトン蒸留所)
元々の名前は、「オールド・アイリッシュ・ウイスキー(Old Irish Whiskey)」。旧ミドルトン蒸留所のプラッグシップ的なブランドでしたが、名物セールスマン、パディ・フラハティ(Patrick J. O’Flaherty)の名から「パディのウイスキー」として親しまれ、1913年に「パディ」を正式名称にしました。
③ジェムソン(新ミドルトン蒸留所)
No.1アイリッシュウイスキーとして、圧倒的なシェアを誇っています。
④ミドルトン・ベリーレア(新ミドルトン蒸留所)
ファーストフィルのバーボン樽で12年以上熟成されたシングルポットスチルウイスキーを毎年50樽ほど選び、少量のグレーンウイスキーとブレンドしたものです。1984年から発売されている、いわばイヤーブレンドです。ラベルにはボトリングした年が表示され、マスターディスティラーのサインも入っています。
❺カネマラ(クーリー蒸留所)
クーリー蒸溜所で作られるピーティッドタイプのシングルモルト・アイリッシュ・ウイスキー。4年、6年、8年熟成のモルト原酒をブレンドしています。「カネマラ」とはアイルランド西部の街、ゴールウェイの北西、大西洋に面したカネマラ国立公園として名高い地です。入り組んだ海岸線や湖に囲まれ、荒涼の美、アイルランドの原風景が残る地、といった表現がされる風光明媚な場所となっています。ここはかつてピートの採掘場所でもありました。一般にアイリッシュウイスキーはスモーキーフレーバーが無いとされますが、その昔のアイリッシュはピーテッド麦芽を使用していました。製品名ピーテッド・シングルモルト「カネマラ」はその懐古を込めて名づけられたものです。
【問39解説】
シングルポットスチルウイスキー(ピュアポットスチルウイスキー)は、アイリッシュ・ポットスチルウイスキーやピュアポットスチルウイスキーとも呼ばれる、アイリッシュ伝統の製造法です。原料は大麦麦芽(モルト)30%以上、未発芽大麦30%以上、そのほかの穀物(ライ麦やオーツ麦など)の使用は全体の5%未満です。原料は大麦麦芽以外の穀物の殻が固いため、石臼で粉砕してから糖化します。さらに、大麦麦芽100%ではないため、糖化に長い時間がかかります。これが 「オイリー」と評される、アイリッシュ独特のクミーリーな舌触りやのどごしにつながります。
銅製ポットスチル(単式蒸留器)で3回蒸留された後に熟成され、スコッチのシングルモルトと同じように樽で売られたり、ブレンデッドウイスキーのキーモルトとなり、グレーンウイスキーとブレンドして販売されたりします。
代表的なポットスチルウイスキーとしては、以下のものがあります。
・Green Spot「グリーンスポット」
・Powers「パワーズ・シグネチャーリリース」
・Redbreast「レッドブレスト12年・15年・21年」
・Single Pot Still Irish Whiskey Finished in Virgin Hungarian Oak「バージン・ハンガリアン・オーク・フィニッシュ」
・Single Pot Still Irish Whiskey 28 Year Old Ruby Port Pipe Single Cask 28年「ルビー・ポート・パイプ シングル・カスク28 年」
問題の銘柄を仕分けすると、
・レッドブレスト(ポットスチルウイスキー)
・インチデアニー(スコットランド・ローランドのファイフ地方の、グレンロセス郊外に2015年にオープンした蒸留所。水素を燃料としてボイラーを稼働させて、スコッチ初の蒸留所としてチャレンジしている蒸留所)
・エデンミル(スコッチのシングルモルト)
・ターコネル(シングルモルト)
・コールレーン(ブレンデッド)
・グリーンスポット(ポットスチルウイスキー)
・タラモアデュー(ブレンデッド)
・パディー(ブレンデッド)
・ワイルドギース(ブレンデッド)
従って、ポットスチルウイスキーは2銘柄のみ。
【問42解説】
1885年頃、アルフレッド・バーナードは、ワインと蒸留酒の専門誌『ハーパーズ・ウィークリー・ガゼット』の秘書を務めていました。読者にウイスキー造りの歴史や説明を提供するため、バーナードはスコットランド、イングランド、アイルランドの全ての蒸留所を訪問することにしました。友人の案内で、150ヶ所以上の蒸留所を訪問しました。彼のレポートに登場する蒸留所の名前は、19世紀末以降に、その名声が薄れた蒸留所や、今日でも熱心なウイスキー通を唸らせる蒸留所があります。本書の魅力は、各蒸留所の製造工程に関する技術的な記述だけでなく、歴史的な色彩とディテールにあふれた彼の旅の描写にあります。本書は、スコットランドの国民的な飲み物の起源を知るための完全なガイドであると同時に、ヴィクトリア時代の生活と旅を生き生きと描いています。
因みに、アイルランド蒸留所については、以下の28ヶ所の記述があります(abc順)。
1)Abby Street Distillery
2)Avoniel Distillery
3)Bandon Distillery
4)Birr Distillery
5)Bishop's Water Distillery
6)Bow Street Distillery
7)Brusna Distillery
8)Bushmills Distillery
9)Coleraine Distillery
10)Dundark Distillery
11)John's Lane Distillery
12)Jones Road Distillery
13)Limavady Distillery
14)Limerick Distillery
15)Marrowbone Distillery
16)Midleton Distillery
17)Monasterevan Distillery
18)North Mall Distillery
19)Nun's Island Distillery
20)Phoenix Park Distillery
21)Royal Irish Distillery
22)The Glen Distillery
23)The Irish Distillery
24)The Lower Distillery
25)The Upper Distillery
26)Thomas Street Distillery
27)Tullamore Distillery
28)Waterside Distillery
【問43解説】
①W.B.イェーツ
ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats, 1865年6月13日 - 1939年1月28日)は、アイルランドの詩人・劇作家。幼少のころから親しんだアイルランドの妖精譚などを題材とする抒情詩で注目されたのち、民族演劇運動を通じてアイルランド文芸復興の担い手となりました。モダニズム詩の世界に新境地を切りひらき、20世紀の英語文学において最も重要な詩人の一人とも評されています。1922年から6年間、アイルランド上院議員も務め、1923年にはノーベル文学賞を受賞。日本では能の影響を受けて執筆した戯曲『鷹の井戸』や、初期の抒情詩「湖の島イニスフリー」などがとくに広く知られています。
②バーナード・ショー
ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw, 1856年7月26日 - 1950年11月2日)は、アイルランドの文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト。ヴィクトリア朝時代から近代にかけて、イギリスやアメリカ合衆国など英語圏の国々で多様な功績を残した才人として知られています。
③ジェイムズ・ジョイス
ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882年2月2日 – 1941年1月13日)は、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家、詩人。画期的な小説『ユリシーズ』(1922年)が最もよく知られており、他の主要作品には短編集『ダブリン市民』(1914年)、『若き芸術家の肖像』(1916年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)などがあります。ジョイスは青年期以降の生涯の大半を国外で費やしているが、ジョイスのすべての小説の舞台やその主題の多くがアイルランドでの経験を基礎においている。彼の作品世界はダブリンに根差しており、家庭生活や学生時代のできごとや友人(および敵)が反映されている。そのため、英語圏のあらゆる偉大なモダニストのうちでも、ジョイスは最もコスモポリタン的であると同時に最もローカルな作家という特異な位置を占めることとなりました。
④J.M.シング
ジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge,1871年4月16日-1909年3月24日)は、アイルランドの劇作家・詩人・小説家、フォークロリスト(民俗文化研究者)。アイルランド文学復興運動とアベイ劇場設立者の一人として知られる。カトリック教徒が大半を占めるアイルランドで、中流プロテスタント(シング家は、英国国教会:アイルランド国教会)の視点から、細かな現実を厳しく観察する目と、アイロニーにみちた簡潔な表現を身につけました。アイルランドを理想化する傾向が盛んであった文学運動のなかで、強い風刺の精神を貫き、通俗性と芸術性を兼ね備えた独自の文体で、典型的なアングロ・アイリッシュ文学を生み出した功績は大きい。
❺アーサー・コナン・ドイル
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle, 1859年5月22日 – 1930年7月7日)は、イギリスの作家、医師、政治活動家。推理小説・歴史小説・SF小説などを多数著した。とりわけ『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られる。SF分野では『失われた世界』『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『ホワイト・カンパニー』やジェラール准将シリーズなどを著している。1902年にナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た。
【問44解説】
ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift、1667年11月30日 - 1745年10月19日)は、イングランド系アイルランド人の諷刺作家、随筆家、政治パンフレット作者、詩人、および司祭。
著名な作品に『ガリヴァー旅行記』『穏健なる提案』『ステラへの消息』『ドレイピア書簡』『書物合戦』『桶物語』などがある。スウィフトは英語の散文で諷刺作品を書いた古今の作家のなかでも第一級といってよいだろうが、詩作のほうはそれほど知られていない。彼は当初すべての著作を、レミュエル・ガリヴァー、アイザック・ビッカースタッフ、M・B・ドレイピアなどの筆名で、もしくは匿名で発表した。1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた。
1689年のアイルランドにおけるジャコバイト反乱の後で、スウィフトは有力な外交官兼議員ウィリアム・テンプル卿の庇護を受けてイギリスに逃れる。続く十年、スウィフトはテンプルの秘書を務めた。その間、オックスフォードで学士号を取り、アイルランドのエピスコパリアン教会の司祭となり、テンプルの若き被後見人エスター・ジャクソンこと「ステラ」の家庭教師となる。
テンプルが 1699年に没し、スウィフトはアイルランドに戻って、教会の各種役職に就いた。1704年に書いた風刺小説二編―― Tale of the Tub と Battle of the Books――のかげで、ある程度の名声(とある程度の敵)を獲得。
生涯ホイッグ党支持者ではあったが、ホイッグ党と教会との対立が高まる中で、スウィフトは 1708年にホイッグ党に対して一連のパンフレットによる攻撃を開始する。1710年には、スウィフトは完全にトーリー党に乗り換えて、その才能をトーリー党のために縦横に活用する。スウィフトはトーリー派雑誌 The Examiner を乗っ取って、1711年のパンフレット数枚によってイギリス世論を「ホイッグ」のスペイン succession 戦争反対に向ける。
アン王女が 1714 年に死んで、トーリー党は第一党でなくなり、スウィフトはアイルランドに戻った。その後一生を、ダブリンの聖パトリック大聖堂の司祭長として過ごす。
愛するステラの死後、スウィフトは元気をなくし、晩年はだんだん精神的に不安定となって、1745 年に没した。アイルランドの愛国者、およびホイッグ党政策に対するトーリー党からの批判者としての役割を果たしたスウィフトは、ウィリアム・バトラー・イェイツの詩「七賢人」および「スウィフトの墓碑銘」で褒められている。
【写真出典:Wikipedia】
【問45解説】
①マイ・レフトフット(1989年のアイルランド映画)
1932年にアイルランド・ダブリンで22人兄弟の10番目に生まれたクリスティ・ブラウンは生まれつき小児麻痺で立つことも話すこともできず唯一左足のみ、かろうじて動かすことができた。少年期のクリスティは街の人々からは厄介者扱いされ、冷たい視線を受けた。しかし心優しい母・ブリジットは多くの子供を抱える貧困生活でありながらクリスティを見捨てずに支え続け、他の兄弟姉妹達もクリスティを対等に接した。家族で唯一、レンガ職人の父・パディは息子の障害を受け入れることができず、クリスティを罵倒していた。ところがある日、クリスティは父に「言葉もわからないし字も扱えない」と侮蔑された悔しさから左足にチョークを持つと、必死に這いずり回りながら床に初めての字「MOTHER」を書いて見せる。これに感動した父はようやくクリスティを自分の息子として認める。
②ライアンの娘(1970年のアイルランドが舞台のイギリス映画。
20世紀初頭、独立運動が秘かに行なわれているアイルランドの港町。古い因習を嫌う美しい娘ロージーは、年の差が離れた教師チャールズと結婚式を挙げた。しかし彼との平凡な日常生活に不満足なロージーは、赴任してきたイギリス軍将校のランドルフと不倫関係を結ぶ。あるとき、武器を陸揚げしていたイギリスからの独立を望む男たちが逮捕されるという事件が起こり、ロージーは裏切り者の烙印を押されてしまう。そんなとき、彼女のそばにいて支えてくれたのは、彼女が裏切り続けていた夫のチャールズであった。
③静かなる男(1952年公開のアイルランドが舞台のアメリカ映画)
アイルランド系アメリカ人の青年ショーン(ジョン・ウェイン)は、生まれ故郷であり幼少期をすごした、アイルランドの小さな村イニスフリーを訪ね、居を構える。最初は奇妙がられていたものの、誠実で逞しく気のいい青年は、たちまち街の人々の人気者となる。ショーンはやがて隣のダナハー家の勝気な村娘メアリー・ケイト(モーリン・オハラ)と恋仲になる。しかし粗暴でひねくれ者の兄レッド・ウィルはショーンを気に入らず、二人が結婚した後も持参金を持たせなかった。それはアイルランドの風習では恥に値することであったが、アメリカ育ちのショーンには理解できない。メアリー・ケイトに背中を押され、とにかくも説得を試みようとするショーンをレッド・ウィルは挑発し、決闘をもちかける。しかしショーンは拒絶する。ショーンはかつてアメリカでプロボクサーをしていた頃、試合で相手を殴り殺してしまったことがあり、二度と金のために暴力は振るわないと誓っていたのだ。しかしそれは、やはりアイルランドの気質からは外れたものであり、愛しながらも夫の臆病さを恥じたメアリー・ケイトは、とうとう新居を出ていってしまう。これ以上彼女に恥をかかせるな、という友人らの忠告に、いよいよ覚悟を決めたショーンは、メアリー・ケイトを力ずくで連れ戻し、レッド・ウィルと決闘する。街中の人々が取り囲み、やんやと騒ぎたてる中で、男2人の激しい殴り合いが続く…。その晩、拳で理解しあった2人は、肩を組んでメアリー・ケイトの待つ新居へ戻り、黒ビールで乾杯するのであった。
④マイケル・コリンズ
1916年、アイルランド革命軍は武装蜂起するも、英国軍の前に敗北した。指導者デ・ヴァレラと共に、コリンズとボーランドも逮捕される。やがて釈放されたコリンズとボーランドは、再び独立運動へと身を投じるのだが……。アイルランド独立のために戦った実在の男たちの物語を、アイルランド出身のN・ジョーダンがメガホンを取って映画化した大力作。
❺わが谷は緑なりき(1941年のウェールズを舞台にしたアメリカ合衆国のドラマ映画)
この作品は19世紀末のイギリス・ウェールズ地方のある炭坑町を舞台に、男たちが皆働いているモーガン一家の人々を主人公にした人間ドラマ。原作はリチャード・レウェリン(英語版)が書いたベストセラー小説『How Green Was My Valley』である。この作品でジョン・フォード監督が描こうとしているのは善意と誠実さを貫いて生きる人間の姿と魂である。
以上、全て「Wikipedia」から引用しています。
【問46解説】
各キーワードの内容は以下の通りです。従って、アイリッシュ関係は3つとなります。
①アビンジャラク(スコットランド最北西部ルイス島にある蒸留所及び製品名)
②ライムストーンブランチ(アメリカ・ケンタッキー州にある蒸留所)
③エンジェルズエンヴイ(アメリカ・ケンタッキー州ルイヴィル市中心部にある蒸留所及び製品名)
❹ロー&コー(アイルランド・ダブリンにあるディアジオ社の蒸留所)
❺クワイェットマン(アイリッシュのシングルモルト・ウイスキー)
❻ダンヴィルズ(アイリッシュ・ウイスキー)
⑦ノックニーアン(スコットランド西海岸沿いにある蒸留所及び製品名)
⑧コッツウォルズ(英国・コッツウォルズにある蒸留所及び製品名)
⑨アイル・オブ・ワイト(ワイト島:the Isle of Wight)は、イギリスのイングランドの島であり、島全体で1州をなす。本土(グレートブリテン島)から狭い海峡を挟んだ南方に位置し、対岸はハンプシャー州。
⑩ポール・ジョン(インディアン・ウイスキー)
【問47解説】
ケルズの書は、8世紀に制作された聖書の手写本である。「ダロウの書」、「リンディスファーンの福音書」とともに3大ケルト装飾写本のひとつとされています。アイルランドの国宝となっており、世界で最も美しい本とも呼ばれています。
縦33cm、横24cm。豪華なケルト文様による装飾が施された典礼用の福音書で、四福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書)が収められています。言語はラテン語で、文字はインシュラー体。
イギリス、またはアイルランドのコルンバ修道院で制作され、グレートブリテンとアイルランドの両方からのさまざまなコルンバ修道院からの貢献があった可能性がある。西暦800年頃に制作されたと考えられている。福音書は主にウルガタから引用されているが、古ラテン語聖書として知られている以前の数々のラテン語聖書の総体から引用された聖句も含まれている。西洋書道の傑作であり、インシュラー芸術の頂点である。また、アイルランドの最高の国宝の1つとして広く知られている。ケルズ修道院で完成されたため、ケルズの書と呼ばれた。
ケルズの書の挿絵と装飾は、他のインシュラー福音書よりも豪華で複雑である。装飾は伝統的なキリスト教の図像とインシュラー芸術に典型的な華やかな渦巻き模様のモチーフを組み合わせている。人間、動物、神話上の獣、ケルト族の結び目、鮮やかな色の織り交ぜられた模様が、写本を活気づけている。これらの小さな装飾要素の多くは、キリスト教の象徴性があるため、主要な挿絵をさらに強調している。
今日の写本は340枚の一葉で構成されており、表面と裏面の合計680ページがある。1953年以来、4巻にまとめられている。写本は高品質の子牛のベラムで出来ており、装飾された落し大文字と装飾画で全10ページの挿絵と文書が含まれている。インシュラー体は、少なくとも3人の写本筆写者の作品であるように見える。レタリングは没食子インクで書かれており、使用されている色はさまざまな物質に由来しており、その一部は遠方の土地から輸入されたものである。
現在は、アイルランドのダブリン大学のトリニティ・カレッジ図書館に所蔵されており、4巻のうちの2巻が常時展示されている。デジタル化されたバージョンもオンラインで見ることができます。
【参考:Wikipedia】
【問48解説】
アメリカのクラフトが造るのがムーンシャインで、アイリッシュが造るのが「ポチーン」だ。ムーンシャインもポチーンも、もとは密造酒のことだが、なぜアイリッシュはポチーンなのか。そもそもポチーンとはどういう酒なのか—。
ポチーンは“小さなポットスチル”、Poteenから派生した言葉で、もとは密造酒のことを指していたが、19世紀から20世紀初頭にかけて、アイルランドでは広く造られるようになった。当時、度重なる酒税法の改訂と重税で、アイルランドでは“パーラメントウイスキー”と、ポチーンの2つが存在するといわれた。パーラメント(議会)ウイスキーとは文字どおり、政府の許可を受けた公認蒸留所で、ポチーンは密造酒である。アイルランドはウイスキーの原料である大麦麦芽に高い税金がかけられたし、やがて『ポットスチル法』によって、スチルのサイズ別に税金がかけられるようにもなった。麦芽に対する税金に対抗するために取られたのが、麦芽以外の穀物も混ぜて仕込みに用いるポットスチルウイスキーで、19世紀以降、アイリッシュではこれが主流となった。スチルのサイズによる課税は、サイズが大きくなればなるほど、税が優遇された。理由は密造用に使われる小さなスチルをなくすためである。そのためアイリッシュの業者はスチルを大きくし、そして麦芽以外の穀物も混ぜる独特のスタイルを確立した。これがパーラメントウイスキーで、メジャーな蒸留所と、そのブランドは、ほぼすべてがこれである。
ポチーンの歴史は、アイルランドに蒸留酒文化が伝わった6~7世紀頃からあるといわれるが、かつてはどの農家でも、このポチーンを造っていた。16世紀になって、蒸留には免許がいるようになり、18世紀には農家の自家製ポチーンが禁止されたが、それでポチーン造りが消えたわけではない。逆に前述の法によって、都会部からアイルランド西部にのがれる業者も続出し、19世紀半ばから20世紀にかけて、“ポチーンの黄金時代”といわれる時代がつくられた。
この頃、ポチーン造りの中心といわれたのが、コノート地方のドニゴールやスライゴー、そしてメイヨーなどの各州である。ドニゴールはもともとスコッチとの結びつきも強く、独自のポチーンを育んできたが、ほとんどは地産地消。対してスライゴーはポチーン造りと流通の中心として栄えたという。ポチーンはウイスキーと違って樽熟成をさせない、無色透明のスピリッツである。しかし原料は、ほぼ麦芽100%で、しかも小さなスチルで2回蒸留。パーラメントウイスキーとは対照的で、味ははるかに美味しかったという。ましてや税金を払っていないのだから、ウイスキーに比べて安価で、アイルランドの民にとって、これが彼らの“ウイスキー”だった。
その中心地がスライゴー湾の沖にあるイニッシュマレイという小島で、ここのポチーンは、ポチーンの代名詞といわれるほど名を馳せたという。この島のポチーン造りは1948年まで続いたというからスゴイ。この年、最後の島民が去り、現在は無人島となっている。アイリッシュのクラフト蒸溜所がこぞってポチーンを造るのは、それが貧しいアイルランドの民の酒だったからであり、それが文化だという想いがあるからだろう。ちなみにポチーンは現在、GI認証を受けている。つまりアイルランド以外ではポチーンは造れないのだ。
【引用:土屋守のウイスキー千夜一夜】
※地理的表示(GI: Geographical Indication)とは、知的財産権の一つであり、国連の世界知的所有権機関(World Intellectual Property Organisation=WIPO)によれば、「特定の地理的起源(原産地)を有し、その原産地に由来する高い品質や評価を備える製品に用いる表示。GIは、対象製品が、当該地を原産とするものであることを明示しなければならない。同時に、その製品の品質、特徴、評判が、主として原産地に起因するものでなければならない。その品質が原産地に由来することから、製品と原産地の間に明らかな結びつきがあるとする」と定義されています。
WIPOが管理する知的財産権に関する条約の一つである「原産地名称の保護および国際登録に関する協定」(略称「リスボン協定」)は、特定の場所を原産地とする生産物を表示する「原産地名称(Appellations of Origin)」の国際登録制度を定めています。この制度は、加盟国が自国で保護している原産地名称が他の加盟国においても保護されることを可能にするものです。リスボン協定は2015年5月末に改正され、原産地名称に加え全てのGIの保護にも適用されることになったほか、EUをはじめとする政府間組織にも加盟の道が開かれることとなりました。
日本はリスボン協定に加盟していませんが、日本政府は、日本の農産品や醸造酒(ワイン類)・蒸留酒(スピリッツ類)の国外での売り上げや評価を高めようと、2015年6月1日に、農産品全般を対象とする独自のGI制度を導入しました。具体的には、「特定農林⽔産物等の名称の保護に関する法律(GI 法)」や、商標法、消費者保護法などによって、第三国において日本のGIが保護されるようになりました。
※令和3年10月7日現在、国内でGI登録されたものは107産品に留まっていますが、日本のクラフト蒸留所のスピリッツも、積極的に登録すべきだと当サイトの管理人は考えます。
【問49解説】
アイリッシュ・コーヒー (Irish Coffee) は、アイリッシュ・ウイスキーをベースとするカクテルで、アイルランド南西部・シャノン川河口の漁村フォインズ(Foynes)にあった水上飛行場で、旅客機の乗客のために1942年に創案されたカクテルです。考案者はフォインズ飛行場のパブのシェフ、ジョー(ジョセフ)・シェリダン(oseph Sheridan 1909-1962)。
現在、シャノン空港にはカクテル考案者のシェリダンを記念して「ジョー・シェリダン・カフェ」が設けられており、記念プレートも設置されています。
因みに、ベースのウイスキーをスコッチ・ウイスキーにすると、ゲーリック・コーヒーに名称が変わります。
【問50解説】
アイリッシュ・ミスト(Irish Mist)は、1948年にアイルランドのタラモアのウィスキー蒸留業者ウイリアムズ家によって開発されたとされる、リキュールの1種です。
ウイリアムズ家は、当時タラモア・デューを販売していました。アイリッシュ・ミストは、そのウィスキー販売会社の子会社によって生産が開始されましたが、アイリッシュ・ミストが好評だったため、1954年にリキュール製造に専念しました。アイリッシュ・ウイスキーに10種類以上のハーブの抽出エキスと蜂蜜を加えることにより製造されます。アルコール度数は35度、エキス分は21%。<br>アイリッシュ・ミストは、中世の時代にアイルランドに住んでいたゲール族が飲用していたと言われており、「ヘザー・ワイン」を参考に開発されたとされています。これは、ヒースの花で香り付けされた混成酒であったといわれており、また、アイリッシュ・ミストにおいてもヒースの花は使用されています。
現代のアイリッシュ・ミストは、アイリッシュ・ウイスキーをベースに、前述のヒースの花やクローバーの花から集めた蜂蜜、オレンジの果皮、10種類以上のハーブエキスをブレンドしたものに、水とシロップを加え、3ヶ月以上熟成させたものが製品となっています。
※因みに、ヒース【heath】とは、常緑の矮性(わいせい)低木(とくにツツジ科の)が優占する植生。ときには,そこに生える低木そのものを指すこともあります。ドイツ語でハイドHeideともいう。草本や蘚苔類・地衣類が優占する酸性土壌のやせた土地にも使うことがあります。ヒースで有名なのは西ヨーロッパの沿岸部で,冷涼,湿潤で,冬が寒くない海洋性気候下のポドゾル化した貧栄養の酸性土壌の土地に広く分布し,南部ではエリカEricaの類やエニシダ類(マメ科)が目だち,北部ではハイデソウCalluna vulgarisが優占種です。アイルランド国内には8種類の違ったヒースがあり、毎年7月下旬から8月上旬にかけて咲くものは、鮮やかな濃いピンク色のベル・ヘザーです。
【写真出典:ナオコガイドのアイルランド日記】